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もっと知りたい森田光一
○ 熊谷高校時代(S43〜46年)
クラブ活動はなぜか歴史と伝統のある? 熊谷高校弁論部で3年間大声を張り上げてい ました。2年生で部長に担がれ「全関東高等学校弁論大会」を主催したことを覚えて
います。折りしも学生運動が過激化した時代でしたので、我が熊谷高校としても何か しなくてはと、まず、当時の黒の学生服を廃止自由化する運動に取り組み見事成功し
たのですが、自由になると毎日同じ服で登校するわけにもいかず困ったことになりま した。さらに、もっとかっこいいことをしよう!と、学校から熊谷駅までデモ行進を
しました。目的は何だったのか良くわかりませんでしたが、熊谷女子高校の前の道は ルートにしっかり入っており、一際、シュプレヒコールに力が入ったことは覚えてい
ます。
熊谷高校時代フォトアルバム
○
埼玉大学時代(S46〜51年)
入学した学部学科は、教育学部中学校教員養成課程英語英文学科というなが〜い名前 でした。要するに中学校の英語の先生になるところだったわけです。当時の学費は何
と月額1,000円で、入学金もありませんでした。さすが国立大学だなと思いまし たが卒業するまでこの学費でしたから、今は先生にならなきゃまずかったかな? とも
思います…。なにをやっていたかというと、伝説の埼玉大学ロック研究会(今は無く なったそうです)でロックバンドに狂っていました。1970年代前半はアメリカ・
ヨーロッパとも数多くのビッグなグループの全盛期で、レッド・ツェッぺリン・ディ ―プパープル・ローリング・ストーンズetc,すっかりその気になって髪を伸ばし、ハイ
ヒールにジーンズとお決まりの格好でした。今流に言えば結構 い・け・て・るバン ドでしたよ。なぜ5年掛かって卒業したかというと、途中で先生には向いていない事
に気づいて、測量の専門学校に一年通い、卒業後は父の仕事を手伝う道を選びました。 大学は何とか卒業させてもらいましたが、不良学生で先生にはご迷惑をおかけしまし
た。
埼玉大学時代フォトアルバム
○ 社会人として(S51〜 )
大学卒業後父の友人の経営する測量会社に就職させてもらい、言うならば修行に出た 訳ですが、翌昭和52年には父と東松山測量設計(株)を設立し当時専務取締役に就
任しました。日本の経済もバブルに向けて最高の時代だった事もあって業績も順調に 伸び、社員もそれに伴って増えピークでは30人になりました。今は20人程ですが、
26歳で結婚し、2人の男の子が生まれました。長男はもう28歳です。
私が、29 歳の時、友人に進められて東松山青年会議所という団体に入会しました。後に、青年 会議所のメンバーとして活動したことが、私の人生を大きく変えることになろうとは
思いもよりませんでした。青年会議所は、20歳から40歳までの青年経営者の集団 ですから、活動は何をやっても楽しく、やりがいのあるものでした。ボランティアあ
り、政策立案あり、イベントあり、もちろんお酒も… 入会して8年目に推選され (社)東松山青年会議所第11代理事長に就任しました。
○教育委員(H4〜)市議会議員(H7〜)
当時 39歳で東松山市教育委員会委員に選任されました。この頃から政治に対する関心が 頭をもたげてきたようです。そして、平成7年の統一地方選挙におい
て東松山市議会議員に初当選しました。そして。2期目には、福祉保健医療委員長、総務県民生活委員長を務めました。
市議会議員として
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